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上陣内の北方に左馬どん(殿)の供養碑があります。
ある年の大旱魃で陣内の農民が苦しむのを見て、左馬どんは夜に中井手の堰を開けて水を流しました。
それを怒った他の村の者たちが左馬どんを竹槍で殺してしまました。
それから200年ほどたった弘化から嘉永年間にかけて大不作が続き、左馬どんの火の玉が飛ぶようになりました。
これは左馬どんの祟りに違いないと供養碑を立てたら豊作になったといいます。
明治の初めまでは春から秋の暖かい夕闇のころ、ひと塊の火が出て、二つ三つと飛び回り、時には引水西の墓地まで飛んできたといいます。