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玉岡城は別名「若宮城」ともいいます。陣内村大字上陣内字玉岡に在り、その場所を「堂面山」又は「若宮岡」と名づけて若宮八幡社が祀られています。
安土桃山時代の元亀・天正にかけて、合志郡(菊池郡の南側)を支配していた合志家の家来であった稲葉安芸守・因幡守親子は先祖から代々この地域を領地とし、白川の南は益城郡、上流の阿蘇郡との2つの方向の守りの要としてこの山に城砦を築き、普段から多くの兵士を訓練して突然やってくるかもしれない外敵の攻撃に対応できるようにしていました。
城内はあまり広いとはいえませんが、1000人程の兵士は収容でき、確かに当時の合志郡のなかでは、最強の防衛陣地でした。
元々この山は四方の山々から離れて孤立しており、南側は白川の急流で遮られ、東に六地蔵川が流れる他、東北西の三方は一面の水田にして、城に近づくのに身を隠すようなものはなく、周邊は広域と何でも見えてしまう場所で、その上に東北より西南に至る外側の石垣の下には空堀を掘り廻らして(この堀は江戸の始め肥後藩主加藤忠廣公の下井手の掘り直しの時埋め立てゝ水田にしてしまいましたが)、毎年五月の梅雨の頃には雨水が貯まって水の溜まった堀になったと伝えられています。