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九州を横断して大分方面に至る豊後街道は、古くは二重峠を通るルートでした。江戸初期に肥後北半を領した加藤清正は、このルートで入国したそうです。
その後、大津の開発とともにこの高尾野を通る道が整備されて参勤道の1つとされました。
熊本城「札の辻」を起点として、江戸の肥後細川藩邸まで132里、約33日ほどの行程でした。
大部分は凹道(切下げ道)で、菊陽町の杉並木や、大津町では高尾野附近に凹道の面影が見られます。
やがて明治の頃には豊後街道は立野経由となり、旧道となった阿蘇までの区間については、特に大津鶴口から二重峠までを、峠を越えて来た清正に因み、「清正公道」と呼ぶようになりました。
高尾野は戦国の頃には人々が住んでいた処ですが、江戸時代慶長年間に集落の北側に参勤道が整備されると、参勤道沿いに移り住み、住民は道路の管理にも当たりました。
江戸後期の寛政4年(1792)に大津を訪れた国学者、高山彦九郎は道中日記を残し、二重峠から大津に入る付近の豊後街道について、「道はきりさけたるものにて、左右之堤き所に至りては1丈余(3メートル)あり。(中央は)切りさげし道にて水さがり悪きを計り、道之中高く、左右に溝を掘りたり。」と述べています。(『熊本県歴史の道査―豊後街道―』熊本県文化財調査報告・第54集、昭和57年3月)
当時の街道筋で高山彦九郎の言う情景を捜してみると、片側一車線の舗装路となってはいますが、その両側に高さ3メートルの土手道が通っている高尾野付近にその面影が感じられます。