ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 ホーム > 組織でさがす > 教育部 > 生涯学習課 > 第11代横綱 不知火光右衛門

本文

第11代横綱 不知火光右衛門

ページID:0019824 更新日:2025年5月22日更新 印刷ページ表示

第11代横綱 不知火光右衛門とは?

1825年3月3日(旧暦)生まれ、大津町手形下町村(現在の大津町下町)出身。身長176cm、体重124kgといわれています。(諸説あり)

取り口はきびきびとして名人級、右を差したら盤石といわれ、またその土俵入りは華麗で「白鶴の翼を張れるがごとし」と形容されるほどでした。

また、わずか二人しかいない熊本出身の横綱であり、土俵入りの型「不知火型」を完成させた人物としても知られています。(諸説あり)この「不知火型」は、現在でも横綱の土俵入りの型として受け継がれています。

不知火光右衛門錦絵

幼少期

当時、大津地方には豪農豪商が多く、力士を抱えて育てており、また年貢を納める大津御蔵で働いていた力自慢の若者は草相撲でしのぎを削り、大津町では相撲が大変盛んでした。

光右衛門の幼名は「原野峰松」といいました。
草相撲で名を轟かせた祖父原野儀右衛門の血を引き、優れた体力と力で他の者を圧倒したといわれています。

土俵入り

村の郷士(武士の身分のまま農業に従事した者や、武士の待遇を受けていた農民のこと)の坂本十郎衛門に誘われて、大阪に出て、同郷の先輩である湊(後の不知火諾右衛門。宇土出身の第8代横綱)の弟子となり初土俵を踏みました。

その後修行を積み、江戸に行き、「殿峯五郎」と名乗り幕下付け出しで相撲人生を歩み始めました。

「不知火光右衛門」と改名、横綱へ

1845年(安政元年)には細川藩のお抱え力士となり、その頃「不知火光右衛門」と改名しました。以降彼は順調に勝ち進み、1860年(万延元年)「関脇」、1862年(文久3年)に「大関」となり横綱免許を手にしました。光右衛門39歳の頃でした。

当時の相撲は「大関」が最上位で、「横綱」は大関の中で特に強い力士に授けられる称号でした。これは現在のような地位としてではなく、「横綱」を腰に締めて土俵入りを行う資格のことを指します。​

幕内在位27場所中に優勝は3回、横綱として6年間在位、1869年(明治2年)に引退しました。

引退後は大阪に戻り、二代目「不知火諾右衛門」を名乗り、不知火部屋を創設し大阪相撲に貢献しました。
1879年(明治12年)、55歳で世を去り、その墓は大阪天王寺の遊行寺と故郷の大津町下町に建てられました。​

生誕200周年記念特別展

光右衛門の写真や茶碗、手形・横綱免許状(ともに写し)など貴重な資料を展示しました。
手形、横綱免許状などは常設で、現在も見ることができます。そして、今回初登場の顔出しパネルも人気!館内は撮影可能です。ぜひお越しください。​

伝承館の様子

皆さまのご意見をお聞かせください

お求めの情報が十分掲載されていましたか?
ページの構成や内容、表現は分かりやすかったですか?
この情報をすぐに見つけられましたか?