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江藤家住宅
江藤家住宅は、一般公開等を除き基本的に敷地内は非公開となります。通常は敷地外からのご見学のみとなりますので、ご了承いただきますようお願い申し上げます。
現在は、年に2回一般公開を開催しています。公開日等については生涯学習情報誌や町ホームページにて情報を発信させていただきます。
※令和5年度の一般公開は終了しました。
国指定重要文化財「江藤家住宅」【平成17年12月指定】
江藤家住宅について[令和4年度版][PDFファイル/536KB]
所在地
〒869-1221
熊本県菊池郡大津町陣内1652番地
住宅面積
6227平方メートル(1887坪)
主屋建坪
196坪(1階157坪 2階39坪)
その他
長屋門・馬屋・中の蔵・裏門・小屋・井戸・石垣
庭園
肥後石組庭園
樹木
樟・梛・木斛・柿・肥後山茶花
樹林
梅
家屋配置図
特徴
- 主屋は、広間部及び土間と突出する座敷部と居室部が見事に組み合わさっており、複雑な外観や意匠的に優れた座敷など、大規模で質が高い。
- 熊本の民家が茅葺から桟瓦葺へ変化した時期を示す資料となる。
- 長屋門から蔵、馬屋などの附属施設が主屋を取り巻くように配され、水路や石垣を含めて江戸末期の屋敷全体の構成をよく保っている。
概要
江藤家住宅は、大津町に散在する江戸時代の「在御家人」(郷士)の住宅の中でも、最も大型、かつ建築年代の古いものの一つです。
主屋は文政13(1830)年の建築で敷地の中央西寄りに南面して建ち、周囲には長屋門、馬屋、中の蔵、裏門があります。
住宅は、白川北岸の肥沃な田園を基盤とした豪農民家としての面と、次第に成長してきた武家屋敷としての面を併せ持っています。
内部は、座敷部を中心に幕末の優れた細川藩御用絵師や職人の手による贅を尽くした床飾りや障壁画があります。
長屋門や蔵などの付属建築にも江戸から明治にかけての建設と思われるものがよく残されており、南正面の庭園の自然の川石を集めた石組みや、県下にあまり例を見ないナギとモッコクの古木が一層の豪華さと落ち着きをみせています。
家屋の紹介
主屋
煙抜きをもった大屋根造の母屋は、基本的には熊本の典型的六間造りで、「匚」の字型の建築です。
江藤家が地方の豪農から、寸志差上げなどによって在御家人の地位を高めて行く中で、約4回にわたり造作が行われています。
創建当初は、広間・仏間・次の間・茶の間・台所・中の部屋と土間部分。文政13(1830)年には、広間の上に2階間があり、この時に主屋の原型が完成しました。
江戸末期に、次の間の東に座敷(10畳)を拡げました。また明治18(1885)年に座敷・客間が修繕され、さらに明治後期に仏間の南側に客間(6畳)を建てました。そのため、仏間の南側の式台は、広間の南側に移されました。
木造一部2階建。桟瓦葺。建坪196坪(647平方メートル)(1階157坪・2階39坪)23部屋。
長屋門
住宅の玄関として、樟の大木に守られるかのような白壁造・下見板張の造りです。壁から軒木を支える腕木には素朴な装飾が施されています。
1階は東2間が門で、西側が2室の物置となっており、天井には1本の大きな牛梁を貫き通してあり、その墨書から天保15(1844)年の建造と考えられます。2階の西側は棹縁天井の室で北側壁に入口があり、外階段が取り付けられていました。
木造2階建。桟瓦葺。桁行12.6メートル・梁間4.0メートル。西側入母屋・東側切妻。
中の蔵
邸内に唯一現存する蔵です。鬼瓦に安永元(1772)年の銘があったといわれ、この頃の建築と思われます。
当初米蔵でしたが、今は道具を納めています。戦後、この2階と南の蔵(現存しない)を繋げてアンコ製造所が置かれていました。内部には階段の跡があります。
土蔵造2階建、桟瓦葺。桁行10.8メートル・梁間5.9メートル。切妻造、西面入口庇付。
馬屋
北側が三つに分かれる馬小屋、南側が物置です。物置東に待合所を増築しています。小屋組は南北に牛梁を貫いています。鬼瓦に文政6(1823)年の銘があったといわれ、主屋や長屋門と構造技法がほぼ同じであるから、この頃の建築と思われます。
木造平屋建、桟瓦葺。桁行16.4メートル、梁間4.5メートル。切妻造、東面下屋庇付。
裏門
組物のない簡素なつくりの薬医門ですが、破風板には若葉付の渦文を施しています。渦文の形状から、江戸末期の建築と考えられます。
木造薬医門、桟瓦葺。桁行2.3メートル、梁間1.2メートル。切妻造。
裏庭
邸内には、東の蔵・西の蔵・南の蔵・中の蔵(現存)・味噌醤油蔵・道具蔵・三階蔵と多くの蔵がありました。しかし戦後これらの蔵は解体され、邸内にはその跡が残されています。
特に北側三階倉は大正末年に造られましたが、昭和33(1958)年頃解体され、現在は熊本市船場橋際の料理屋に移築されています。
また、屋敷北側には、高さ2.5メートルほどの石垣がめぐらされ、敷地を区切っています。途中で外側の水路を引き込んで、邸内西北の水廻りを形成しています。
庭園
主屋の南側武家風の庭園です。ここには、主に常緑の広葉樹が植えられ、座敷から見ると、廻り縁をめぐる広がりと奥行きに驚かされます。
正面の泉水の石組は白川の石を集めて造られた"肥後石組"の典型で、民俗学者宮本常一氏が「熊本の文化がここにある」と感嘆されたそうです。
写真は昭和17年の庭園と東の蔵(現存せず)。
江藤家のあゆみ
住宅の所有者である江藤家の祖先は、家伝によれば豊後国(現大分県)の出身で、主家大友氏を関ヶ原の戦いに失い、江戸初期に肥後国(現熊本県)に移住したそうです。
一方、熊本藩は当時から大津を中心とする白川中流域を灌漑しようと、下井手、上井手などの大規模な水利工事を行いました。このため流域は17世紀中頃から豊穣の地に変身したと思われます。その後、江藤家初代がここ合志郡陣内村に定着、白川の沃野の開発地主として、豪農としての道を歩き出しました。
江戸中期から財政難に悩んだ細川藩は、町人・豪農から寸志(献金)を出させ、武士格(御家人)を与える「寸志差上げ」の制度を設けました。武家に由来する豪農江藤家にとって、武士格は大きな魅力。さらに寸志は地域の安定・保全に尽くすことであり、江藤家は御家人として代々人望を集めていきました。そのため、住宅は在御家人の屋敷としての装いと風格を重ね、肥後の"在"(地方の農業地域)においては特異な、豪華な武家風の住宅に発展しました。
さらに、明治16(1883)年には404町1反5畝18歩(約4平方キロメートル)の田畑を所有する県下屈指の地主として大きな影響力を持ち、有能な人材を多数育てました。自由民権運動が起こると、ここは民権派の重要な一角を占め、明治中期から政界に進出、一族の江藤哲蔵が衆議院議員となり、大正5年(1916)には政友会原敬総裁の下で幹事長を務め、原内閣(1918~1921)成立の原動力となりました。
戦後の農地改革により江藤家は320町(約3.17平方キロメートル)の農地を解放しました。その後、家産維持のための所有者の懸命の努力と、地域社会の中心・象徴としての住宅を維持したいとする地域の人々の献身的協力により、今日に至るまで、本来の所有者である江藤家の生活が続けられています。
阿蘇窪田神社御幸行列記念(左:大正11年3月 右:平成15年3月)
参考文献 『江藤家住宅調査報告書』(平成17年5月、大津町教育委員会編)