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おおづの歴史
おおづ
この地は阿蘇の外輪山から流れ出す伏流水の豊かなところです。地域の郷土史である『合志川芥』という書物には、「此の所は「火児国大水(ヒゴノクニオオズ)」にと呼ばれていた」とあります。
また、この一帯は古く肥後の豪族合志氏の支配下に属し、戦国の頃永正年間(1504~1520)に佐々木合志の支族十郎義廉(氏不明)が東嶽城(現日吉神社地)を築き、城主になるに当たり、「大水(おおづ)」と同じ読みの雅名を求めて「大津」と改名し、さらに自ら新しい領地名に則り「大津」を氏として、「大津十郎義廉」と名乗ったのではないかと思われます。これが大津の地名の由来と推定しています。
天正15(1588)年加藤清正が肥後の領主として入国、大津下井手、上井手の開さくに着手しました。その没後、井手は、細川氏により完成し、1,300町歩に及ぶ一大穀倉地帯となりました。
江戸期に肥後と豊後を結ぶ豊後街道の要衝として細川藩主参勤交代の宿場町となり、さらに近隣52村余りを統轄する藩政の役所である大津手永会所が設けられ、政治・経済・文化の中心として栄え、今日の基礎が築かれました。
(昭和31年近隣6カ町村が合併、現在の新大津町が誕生しました。)