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苦竹古宮床

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 大津の古い町並みも、上井手の南側の堤防を守るためにまわりに住んでいた農民の家をその上に立てさせたことから、できたものでした。井手沿いに今も残るお寺や神社のなかには、この「塘町筋」という街並みを参勤交代の宿場町として大きくするために、建てられましたものもあります。中でも、もっと南側にあった苦竹村は、村ごと今の室苦竹のところに移されました。江戸の中ごろ苦竹の人々が、許されてもとのところに戻って住んだのが、現在の新村のはじまりです。


苦竹古宮床(昔) 苦竹古宮床

 苦竹古宮床は室町の年禰神社の古宮です。大津に塘町筋が出来る前は、豊後街道は白川北岸の中程を通っていました。加藤清正が辿った道とされて殿様往還と呼ばれ、堀ヶ谷・南高尾野・猪郷谷・引水・鍛冶・苦竹・灰塚・町・窪田・津久礼と辿って、隈本(今の熊本)に続いていました。

 鍛冶村(今の鍛冶地区)は、菊池千本槍で有名な延寿氏の一族が鍛冶(製鉄)を営んだことに由来する村で、その延寿氏が村の西側に阿蘇の三神を勧請したのが苦竹年禰神社です。殿様往還が栄えて沿道に人々が集まり、この神社は苦竹村の鎮守になりました。

 江戸の初めに上井手が造られ塘町筋が出来るに当たり、宿駅の町並を大津(今の大津地区)の西側(今の室地区)に造り、同時に井手の護岸として保全するためもあって、苦竹村を始め殿様往還沿いの人々の住まいを井手の南岸に集め、住民の鎮守として鍛冶村境の年禰神社を寛永8(1631)年に井手の北岸に遷座させました。これが今の室町年禰神社の由来です。旧村は一面田畑となり、旧の社地は古宮として、鍛冶村が管理してきました。約80年後の宝永7(1710)年に苦竹町の住民は許されて半ばは故地に帰り、古宮の西側に新村が出来ました。

 古宮の祠は、明治の初年に年禰神社の飛地神社(無格社)として位置付けられて、現在に至っています。


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