手永会所や御蔵(おくら)のあった上大津と塘町筋の境にあたる、今の鶴口橋のそばが人々の行き来の中心となっていました。手永会所では、藩や幕府の決まりや命令を人々に伝えるための「おふれ書」を作り、その文章を書いた立て札(高札:こうさつ)をこの橋の北側に置き、ここを高札場としました。高札は年中掲示されており、中には、家・着物・見せ物・身分などについて暮しの中の様々細かいことにもきびしく及んでおり、絶対に従わなければなりませんでした。
郷土誌『大津史』によると、毎年2月~3月に手永会所の広場で行われたキリスト教禁止の行事である「影踏(かげふみ)」の時に、大津手永の東西南北の地域から住民が集まりました。影踏の「踏み絵」を踏み終わった人々は、上大津から塔ノ迫までの見せ物や芝居を見たり、露店での買い物をしたりして、この周辺では10日間は大変賑わいました。大津の宿場の町並みでは、この時期で1年のうち半分のもうけがあったといわれるほどでした。
今では、「鶴口地蔵」が橋の上を行き交う自動車と、橋の下をくぐる上井手の流れを見守っています。