大津の古い町並みも、上井手の南側の堤防を守るためにまわりに住んでいた農民の家をその上に立てさせたことから、できたものでした。
井手沿いに今も残るお寺や神社のなかには、この「塘町筋」という街並みを参勤交代の宿場町として大きくするために、建てられましたものもあります。
中でも、もっと南側にあった苦竹村は、村ごと今の室苦竹のところに移されました。江戸の中ごろ苦竹の人々が、許されてもとのところに戻って住んだのが、現在の新村のはじまりです。
苦竹の氏神です。「年禰」とは、一年の稔りを祝う言葉です。室町時代、鍛冶村で刀鍛冶業を営む延寿氏が、阿蘇神の三神を、旧苦竹村(現新村)に勧請しました。ところが、江戸初期の上井手開削にあたり、苦竹の村人を苦竹町(現室町南側)に移住させ、あわせて当社も寛永8(1631)年に井手の北岸に遷宮されました。護岸と宿駅の街並形成のため集められた住民の鎮守として遷されたのでしょう。
ここには、全国でも珍しい鯰の石絵馬が奉納されてありました。方形の安山岩の表面には、一対の鯰が陽刻されています。両側に陰刻の銘文があり、江戸中期宝永2(1705)年に井手筋の苦竹町の住人が納めたとあります。近接する上井手の安全を祈念して、水の神である阿蘇の神様を象ったのでしょうか。(町指定文化財・大津町歴史文化伝承館所蔵)
奉納の5年後になる宝永7(1710)年には住民の苦竹帰住が許されて、故地に新村が形成されました。そのため、当社の氏子は室町・新村両処におられます。ここは、大津町の街並の元となる塘町筋形成の歴史を物語る史跡です。
昭和38(1963)年から平成20(2008)年、南側に中央公民館(旧大津地区分館)があり北側に移されていましたが、町の都市計画に伴い平成26(2014)年に原地に再建されました。
