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室簀戸口跡(むろすどぐちあと)

最終更新日:

 

R4室簀戸口跡
 江戸中後期の豊後街道は、熊本から現JR線沿いに室に通じていました。特にこの辺りまでは30m程の幅で凹道(おうどう)が東西に繋がり、桜並木が植えられて桜馬場と呼ばれていました。今でもその面影が町の区画に残っています。この辺りが大津宿の西の境界となり、東側に宿場町の街並が連なっていました。

 ここに簀戸口(すどぐち)が設置され、東の境である上大津簀戸口とともに、街道における大津宿の範囲を東西から区切る目印となっていました。とはいえ頑丈な門扉はなく、簀戸を上下する簡易な造りでした。御茶屋が参勤交代等で藩主の休憩・宿泊に利用された時に、両側の簀戸口が閉じられました。また藩主一行が到着する時には、大津の役人衆や町の住民は東西の簀戸口外側の沿道で行列を迎え、「殿様拝み」をしたと、伝えられています。

R4室簀戸口跡
 江戸初期に加藤・細川氏によって大津の宿駅(宿場)が造られた時には、現在の南側の通称「下道」(反返:たんがえし)付近を街道が通じていたとされ、その跡が残っています。やがて上井手が整備されると、塘町筋が宿駅として整備されていきます。大津の周辺は人々が住んでいたこともあり、自然と街並みができましたが、西側の「塔迫(とうのさこ)」の辺りは住民が少なく、特に街道の南側が無人の地でした。

 そこで、寛永の頃から南の村境、特に以前に形作られていた「殿様往還」の宿駅となっていた苦竹(にがたけ)・鍛冶(かじ)の集落から、年貢を3年間免ずるということで街道南側への移住を促し、寛永8(1631)年には鍛冶の氏神である年禰神社(としねじんじゃ)も上井手の北岸に遷宮(せんぐう)させてまで、苦竹村の移住を強制、原地は無人の田畑となりました。宿駅への集住策が功を奏し家並みが揃ってくると、元禄年間(17世紀末)までには北の塔迫村と南の苦竹町の間を街道が通じるという形で宿駅が整ってきました。苦竹の町並が一応出来上がった江戸中期の宝永7(1710)年に、元の苦竹の地に帰住が許されて新村が出来ました。室の年禰神社に奉納されていた鯰の「石絵馬(町指定文化財)」には、その経緯を思わせる「宝永二(1705)年八月上旬 合志郡苦竹町 重助」の銘が残っています。

簀戸口風景(参勤絵図より)

  江戸末期の地引帳(土地台帳)から当時の街道の状況を復元したのが、下の苦竹・塔迫字図です。街道は、桜馬場から南側の狭い坂を登って旧R57に合流し、ここに簀戸口(構口)があったと推定されます。宿駅内は、ここから旧道を東進、北に曲がって上井手の塘を遡っていきます。

 

苦竹塔迫字図改

石絵馬(町指定文化財)

室(苦竹と塔迫)の字図から復元された参勤道の形石造額絵馬(大津町指定文化財)、通称『鯰の絵馬』


 

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