四方遠望(白川北岸の平野)の寛政以後此の地では、豊作と息災を祈って密教系の僧侶により護摩木を焚いて読経する祈祷が行われました。その灰を壇の跡に収めて祠を建てたのが、灰塚の由来です。墓地の西で行われ、天宝15年(1844)銘の碑石があります。
「おおづ -いま・むかし-」(地名のおこり)
灰塚は、お坊さんが護摩(こうぞ、えんじゅなどの生木の切り口から乳のような白い液を出す木をまきとして燃やした)をたいて、いろいろなお祈りをしたところです。そしてその灰が粗末にならないように1ヶ所に集めて塚をつくったことからこの地名が起こりました。