住宅の所有者である江藤家の祖先は、家伝によれば豊後国(現大分県)の出身で、主家大友氏を関ヶ原の戦いに失い、江戸初期に肥後国(現熊本県)に移住したそうです。 一方、熊本藩は当時から大津を中心とする白川中流域を灌漑しようと、下井手、上井手などの大規模な水利工事を行いました。このため流域は17世紀中頃から豊穣の地に変身したと思われます。その後、江藤家初代がここ合志郡陣内村に定着、白川の沃野の開発地主として、豪農としての道を歩き出しました。 江戸中期から財政難に悩んだ細川藩は、町人・豪農から寸志(献金)を出させ、武士格(御家人)を与える「寸志差上げ」の制度を設けました。武家に由来する豪農江藤家にとって、武士格は大きな魅力。さらに寸志は地域の安定・保全に尽くすことであり、江藤家は御家人として代々人望を集めていきました。そのため、住宅は在御家人の屋敷としての装いと風格を重ね、肥後の"在"(地方の農業地域)においては特異な、豪華な武家風の住宅に発展しました。 さらに、明治16(1883)年には404町1反5畝18歩(約4?)の田畑を所有する県下屈指の地主として大きな影響力を持ち、有能な人材を多数育てました。自由民権運動が起こると、ここは民権派の重要な一角を占め、明治中期から政界に進出、一族の江藤哲蔵が衆議院議員となり、大正5年(1916)には政友会原敬総裁の下で幹事長を務め、原内閣(1918~1921)成立の原動力となりました。 戦後の農地改革により江藤家は320町(約3.17?)の農地を解放しました。その後、家産維持のための所有者の懸命の努力と、地域社会の中心・象徴としての住宅を維持したいとする地域の人々の献身的協力により、今日に至るまで、本来の所有者である江藤家の生活が続けられています。 |