ここ歴史文化伝承館を含む北側の区域には、明治初期の大津教育の祖と称される大矢野種徳(たねのり・宣春・恪次)の開いた私塾「沚水塾」がありました。大矢野種徳は、文政11(1828)年塘町の在御家人の家に生まれ、幼少から大津手永会所内の学問方(教育機関)で渋江涒灘(とんだん)らに学び、成長しては福岡の能古島にある亀井家の塾で学に励み、熊本に帰っては藩校時習館で木下韡村(いそん)に従って学問を続け、さらに推薦されて大津手永会所で学問を教えました。
その後、文久元年(1861)
34才で会所をやめた後に沚水塾を開きました。この塾で昼は塾生とともに読書、夜は著述(物書き)に集中したそうです。彼の物事を詳しく研究し、しかもわかりやすく語る学風(学び方)を慕って、常に120名余の塾生が集りました。大正期に熊本最初の首相となった清浦奎吾(山鹿市鹿本町出身・大津町陣内に縁者あり)も一時塾生だったそうです。
慶応4年(1868)41才の時に熊本藩の命により、江戸の昌平黌(しょうへいこう)に遊学(ゆうがく)し、明治3年(1870)大津に帰りました。さらに、小学校長や熊本師範学校の要職などを歴任するとともに、塾の経営を続けましたが、明治15年(1882)7月に55才で亡くなり、沚水塾も閉じられました。
墓は、大津浄正寺東の高台にある西岡家墓地にあり、西向きの墓碑の三面に、彼の業績が刻んであります。その文章は、福岡での同窓ともいえる亀井玄谷(げんこく)が作り、学友で桂陰(けいいん)学舎(現菊陽北小学校)を開校した吉川原南(げんなん)が書いたものです。