大津町の北部には、菊池から阿蘇へ通じる古くからの道があったと思われ、縄文時代からの遺跡・寺社などが並んでいます。杉水地区にある町立護川小学校のある杉水上ノ原の一帯もその一角で、縄文以来の集落及び群集墓・支石墓などが存在し、弥生時代の黒髪式の甕棺(かめかん)などが出土した遺跡です。現在の護川小学校がここに建設される前の平成初年当時、この地域にはあまり多くの人は住んでおらず、この場所は畑のある台地でしかありませんでしたが、古い歴史と由来を持つ史跡に近く、縄文以来の上ノ原矢鉾遺跡などが集中していることから、昔は人々の往来に重要な場所であったと思われます。
昭和の半ば頃、この周辺一帯を調査された考古学者坂本経堯(つねたか)氏は、調査報告書『藤尾支石墓群』(旧旭志村教育委員会、1959)の中で、「この巨石も元々はここに設けられた支石墓の屋根石とされていたもので、それが以前に開墾の際に発見され、その大きさからその場に立てて拝(おが)み石とされていたもの」と述べておられます。報告書『藤尾支石墓群』には、合志川上流域(大津町と旧旭志村(現菊池市南部)にまたがる一帯)には数々の巨石が散在していると報告されています。それらの巨石について、坂本氏は弥生時代を中心に巨石を屋根石等に用いた支石墓といわれる埋葬形式が行われていたと推定され、ここ杉水の矢鉾の地域にあるこの巨石も、その一つであろうと紹介されておられます。また、そういった数々の巨石についての伝説が、旧合志郡(菊池郡南部)の郷土史料『合志川芥』に、地域の伝承として残されています。
町では周辺の発展により、ここ矢鉾に杉水地区の小学校を移転することになり、平成5年(1993)に敷地内の発掘調査を実施しました。それに伴って、この巨石が矢鉾の歴史を象徴する代表的な史跡と考えられましたので、学校内に移設して保存しました。