現在の国道57号線を阿蘇の方へ走っていくと、車線がわずかに下り坂になる箇所の左側に、北からの不動谷川(ふずしがわ)に架かる大きな石橋があります。不動石橋(地元では「ふどばし」)という大きな石積みの眼鏡橋です。
明治の西南戦争の後、阿蘇方面から熊本へと主要な道路を通すため、大分方面から阿蘇のカルデラを経由して立野まで新たな馬車道が作られました。ところがそこから熊本に繋(つな)ぐには、一つにこれまでの旧参勤道を活用し大津地区を経由するか、もう一つは白川北岸の陣内地区を経由するかの二つの案があり、両地区の住民がそれぞれ地元の地域振興の観点から誘致を競(きそ)っていました。陣内側は、立野から下る中世以来の古い道があり、それを活用して馬車道を造り、明治17(1884)年春に竣工し、先に県道に指定されました。これを熊本往還(下道)といいます。一方、大津側も引水から大林・瀬田の北の原野を貫いて立野まで馬車道を急ぎ造り、同年11月には大津往還(上道)を竣工させました。その後、明治25(1892)年に上道は県道となり、その後現在の国道57号線の原形となっております。
この上道が、当時の大林・瀬田の境となっていた崩し川(くずしかわ=現在の不動谷川)を渡すにあたり、規模の大きい渓谷を避けるために、北に少し迂回して馬車道を通すために架けた橋が、この石橋と推定されます。明治中期に架けられたこの橋は、明治の熊本の歴史を彩る隠れた史跡といえます。
また、大正期の郷土史家児島貞熊は『瀬田郷土誌』の中で、この谷川の上流の山中に「小畑長者」という人物が信仰した「不動石」という巨石があったことに、橋名の由来を求めています。