室簀戸口の西側の豊後街道(参勤道)の往還筋は、ここを東西に桜並木の続く馬道でした。春の花盛りの頃は、熊本城下の人々が馬に乗って花見に来たそうです。江戸後期の熊本の、風流を好む人々、特に上級武士などの間では、遠乗り仲間でここの桜を観に来ては、大津の街中に宿をとって飲み明かし、朝帰りするという春の遊びが流行っていたようです。
当時の記録によれば、ここ桜馬場には750本程の桜並木があったと記されています。往時の街道は道幅15間(約30m)の凹道とされ、痕跡はここより西側の菊陽町内のJR豊肥線と旧R57の並行する杉並木の姿に残されていますが、この付近も字図(室簀戸口跡説明板に掲載)に街道の痕跡が観察できます。
往時の桜並木の情景が、次のように七言絶句(漢詩の一種)に詠われています。
〔訳〕 遠乗りして桜花を看る 細川 慶前(よしちか)
仲間と遠乗りして、山風に向って走る、
遠くに見えてくるのは、満開の桜が土手の上にずっと先までも並んでいる様。
気持ちよく悠然と馬を進めて行くと、いつまでもどこまでも、
桜の花びらが、ヒラヒラと足元の路に落ちて、芳しい香を発している。
詩を作った細川慶前は、江戸後期の肥後藩の世嗣(後継者)でしたが、嘉永元年(1848)に満22歳の若さで亡くなった人物。この詩は町内の旧家に遺されたものです。彼の弟が肥後藩の最後の藩主であり、町生涯学習センターのロビーを飾る参勤絵巻に登場する細川韶邦(よしくに)です。
やがて馬場路は、明治後期にはその多くの部分に軽便鉄道が敷かれ、大正3年の国鉄大津駅の開業によって、豊肥線の線路敷きとなりました。現在は国道57号線と325号線の立体交差に近く、住宅が建ち並び、現在では往来する人や車でにぎやかな重要地となり、昔の姿はあまり残っていません。JR豊肥線も電化され、2両編成の銀色の電車が熊本まで、軽やかな音を立てて往復しています。