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「合志川芥」によれば、佐々木合志の前期7代は、南北朝~室町の百余年、ここに城を築いて合志東部を支配しました。矢護川の豊かな実りを祝い「九万石城」と名づけ、一族の発展を祈りました。周辺には上中・下中等城館に関連する地名が残されています。後の戦国期にかけて合志氏は飛隈城(住吉)、合志城(竹迫)と進出し、発展していきました。
九万石城跡入り口は上中集落にあり、城跡は下中(中在目)集落の北側にあります。中在目は中窪田の西側部分の古い呼び名で、一風変わった城跡名は江戸期の文献によるもので、呼称の由来は不確かです。地元では単に「城山」と呼んでいます。民家の裏山に遺溝が残っており「肥後国誌」に「少シノ館ヲ構ヘ堀ヲ穿リ大垣ヲ結テ住セシ」という記述があります。
(主郭)大きさは、東西30メートル、南北26メートル~29メートルで長方形の微高地です。南側に隣接する民家との比高は2メートル~2.5メートル程ですが、北側背後は急峻な岸面で、北側に矢護川流域の水田地帯が広がっています。比高差は約18メートル程です。
主格の東緑には、高さ1.2メートル、上面幅2.5メートル、長さ25メートルの顕著な土塁が残っています。この土塁は南側にも巡っていますが、高さは漸次、西方向に減じており、土塁の東隅から約20メートルの地点で消滅します。主郭は、この南緑土塁の西端部分を中心に17メートル×20メートルの範囲で楕円形状の窪地となります。中心部の深さは約0.5メートルです。一方、西緑には、高さ0.3メートル~0.5メートル、上面幅1.0メートル、長さ27メートルの土塁がありますが、東緑のものより残りが悪くなっています。北側に土塁は巡っていません。
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