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文永年間(1270年)訪れ来た旅僧が17年間正座し「我は行脚の僧なり慈氏の下生を待つ。この所因縁の地なり留まるべし」と遺言して入寂しました。その後土中より7日間磬の声が聞こえたので、村人は石積み堂を建て信仰したので人々は石堂様と呼びました。
寛永の頃(1624年~1643年)里人の夢に「石堂の墳の宝を掘るべし」とのお告げで、夜掘りつづけ蓋に掘りあて開こうとすると里人の名を呼ぶ声がしたので穴の中を見ると人影はなく中より1つの光が飛び出し趾はただの穴となった、村人は相談の上、一字の庵を建て聖観音の木造を祀った」(伝)
当時、堂は大松山下の石堂井樋井手の取り入れ口附近にあったのを後年今の高台に移転したものと思われます。藩主が参勤交代の途次中町本陣からこの庵寺に憩い風光を満喫されたが命名者は忠利公との伝説があります。宗派は浄土宗にもまた禅宗にもなり文化年間後無住となり後迫の寺子屋となり堂守りの僧はしばしば断続しました。合志33ヶ所観音13番札所に当たります。
昭和3年9月柴田昭染尼僧と同徳善和尚が弘法大師を祀り高野山真言宗を興し信徒を集め布教に努め昭和27年本堂新築、昭和32年柴田昭海住職となり本堂、庫裡、門の増改築を行い現在に至っています。
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